昭和54年5月23日 月次祭 大坪かよこ
此方の道は祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる道だと。
ね、話を聞いて助かるということは、話を聞いて力を受けるんだ、話を聞いて徳を受けて行くということにもなるのです。
話を聞かずに心に理解が行かずに、おかげを受けるというのは、ほんとにま、つまらん話でありますけれども、やはりそういう時がございます。
昨日は初めての佐賀支部での共励会が今月から始まりました。
わずかばかりのご信者さん、ま十軒余りのご信者がおります。
空閑さんていう方が、支部長さんで、で、こっちからも、昨日先生方が四人か五人か参りました。
帰って参りましてから、先生が、ある先生がお届け致しますのに、ほんとに佐賀の御方達は、ああいうおかげを銘々が頂きながら、いよいよ何かお話を発表なさい、話をして下さいというても、話されない。
それであんなおかげも頂いとるでしょう、こんなおかげも頂いとるでしょうがと請求したら、そういう話をせねばならんごとあるならば、もうこの次から共励会には出て来んちいう人が二人あったという話なんです。
ま、プライバシーに関することになるのでしょうか。その本人にとっては、ね、ま主人がどうであったとか、子供がどうであったとか、子供がま、不良化しておったのが、段々おかげを頂いてこうであったとかいうようなことは、ま、人の前では話されないとこういうわけなんです。
ね、おかげは頂いてきておるというのが、やはり、ね、話を聞かずにおかげを頂いておるから、そういうことになる。
もうそれこそ、神へのお礼と思うて話をして行けと、それこそ愛の心を持って人へ伝えて行くのが、神へのお礼ぞと。しかもそれが神になるのぞとまで教えておられるのです。
自分が話を聞いて心が開けてくる。心が開けてくると同時におかげの道も開けてくる。
今までいうならば心配不安、そういう日々であったのが、安心の日々がでけるようになり、喜びの毎日を送らせて頂くことがでける。
ね、それを人に伝えて行くということ。
私は今日はそれを聞かせて頂きましてね、ほんとね、そん一人一人おかげ確かに頂いて、なら今度支部でも作って共励会でもして下さいというくらいですから、けど、まだ信心が結局、若いといえば若いですから、その、そういうそのおかげ話をせにゃんごとあるなら、もうこの次から参っちゃこんちゅうた。
ね、それで自分の身内のもんのことの話をしたり、しなければならんのは恥ずかしい。
まあ、ほんとにおかげを頂いて、もうとにかく話すなと言われんでも、人に聞いてもらわなければおられないていうところまで、おかげを頂いて行く以外にはないなとま、私は思ったんですけれども、ね。
お道の信心の特色というのは、祈念祈祷で助かるのではない。いや祈念祈祷でも助かる、ただお願いをしただけでも助かるんだけれども、本当のいうなら神様の心というのは、話を聞いてくれ、心を開いてくれということだとこう思うです。
ね、だから心が開けてくるということは、ほんとに素晴らしいことなんです。
昨日、あるお客さんがございましたので、応接間でお話をさして頂いて、昨日はもうここ二、三日暑い、真夏のように暑いですよね。
そいでちょっとあの冷房入れてくれて、あの冷房入れましたらすぐ部屋がひんやりして、まあ、大変気持ちよく話がでける。ね、話を聞いて助かるということは私はそういうことだと思うんですよ。
ね、暑いはずなんだけれども、一歩外に出れば暑いはずなんだ、人が見れば誰でも難儀と言うだろうけれども、その難儀の中にあっても、いうならボタン一つで暑い時には涼しい、寒い時には暖かいおかげが頂かれる。
それをここ二、三日コントロールという言葉を使うて頂いております。
ね、自分の心がコントロールでける。暑いけれども、冷房入れる。コントロールがでける、ちょうどいい具合になる。。
ね、だからやはり話を聞いて助かるというても、話を聞いては実験し、実験して実証してそれを繰り返していくうちに、ね、確かなもの、いうならば、冷房装置がでけていっておる、暖房装置がでけていっておる、ね、そして何でもない時には、何でも、まあ、平穏無事で有り難いんだけれども、さあ、それこそ寒いと、ね、ほんとに冷たい思いをしなければならないような時であっても、生神金光大神、天地金乃神様と念じて、お取次ぎを頂いて自分の心の在り方というものが変わってくるところに、も、それこそ、平常心である。いつもと同じ心の状態でそれを頂くことがでける。
ね、そういう心におかげはいやが上にも、そういう心が広がれば広がるほど、広く深くなればなるほどにおかげを頂いて行く。
今日は大分の衛藤征四郎さん、参議院議員の方の秘書になられる方が、お参りになりました。えとうのえというのは衛と書く、衛藤と書いてある。
ね、ちょっと変わったお名前です。神様にその人のことをお届けさせて頂いたら、もうこの人はじっとしとっても、人徳が付いて行き、段々いろんなことが願い成就していく人だということを頂いたんです。
そういう人がありますよね。世の中には、ね、だからそういう人が幸せかというとそうでないのです。
ね、恵まれに恵まれれる、いわば一生であっても、ね、なら魂の世界に行って、いやそれが子や孫にどういうふうに伝わって行くかと。金光大神の道は、ね、親の代よりも子の代、子の代より孫の代に家繁盛、子孫繁盛の道を教えて下さる道なのだから、たとえいまよし、それが難儀なことがあっても、その難儀の中に難儀と思わずそれを神愛と悟らしてもろうて、それこそ心ひとつで、ね、寒い時には暖かい、暑い時には涼しい心の状態を頂けれるんです、それが。
それが頂けれるのが信心です。だからけいこしなければでけんのです。やはりその設備を厭うてはならんのです。
ね、それが生涯、いよいよ広く深くなっていくことなんですから。
ね、話を聞いて助かるということはそういうこと、話を聞いていよいよ心が広うなる、いよいよ心が深うなる。
ね、そのどういうことでお参りになったかというと、その地区に衛藤さんの藤という字、とうという字は藤という字ですから、藤の会というまあ、後援会のようなものでしょうね、がでけました。
それに一つなんていうですかね、スローガンていうでしょうか、趣意書のようなものが、そのでけているんです。
これを一辺お読み頂いて、ね、そしてこの芯になる、ここでま、いうならば、この趣意書に対する御理解を頂きたいというのです。ほらもう我がよかこつば、自分のこつばかり書いちゃる。
藤じゃからもうどこまでん登って行けれるといったようなことが書いてあるのです。そりゃそうですね、あのかづら、そこになんかが大木から大木に、なんぼでも登っていける。ね、そういうひとつ会にしたいという、まあ、趣意書なんです。
で、それを会員の方達に、も、けどもその心になるものを頂きたいというのが今日の参拝のわけでした。
で、その方に申しました。この方はそれこそほっといても段々成功がでける人だけれども、ね、それこそ子に孫に、自分もたとえば暑い寒いを感じんで済むほどしの、な、暑い寒いがない、あるんだと。ね、ほいでま、信心を頂いて国のお祭り事に携われる方達が、どうでも一つこの辺のところが分って行かなければならんというて、久留米市長が頂かれた、いわゆるあの木偶の、木偶というのはあの土で作った人形、ね、土で作った人形がこうやって手を上げておる様子を頂いた。
ね、近見市長が中国に旅行されるという、それで何か心にかけておくものを御教頂きたいというて、参られた時に頂いた御理解なんです。
ね、だからたとえば中国と日本が提携する、同盟をするというても、お互いが利用し合うための提携であってはならない。
ほんとに真の平和というのは、人間がいよいよ神様の前に無条件の降服を手を挙げたとき、この上にあげた手で握手をしたときに始めて真の平和ということが言える。
大変な難しいこと、とてもこれが世界万国に広がっていくということは、もういよいよもって、ま、不可能というほどしに難しいことなんだけれども、まずこの心を自分の心から、自分の一家に、自分の周辺に、たとえば久留米市長でいうならば、久留米市民の上に、ね、それこそ水と緑に囲まれたという久留米市の中に、合楽理念を持ってしなければと、ここで一辺講演会の。講演会の時に言っておられますように、ね、それに合楽理念が入っていく、とにかく自分でするのじゃない、神様のおかげを頂かなければでけることではない、我無力の、ほんとの実相というものが分っての、いうなら、国の祭りごとであるというような政治家が出てくるならば、有難いことだというて、ま、お話をした中にです、ね、どうぞその衛藤さんに申し上げて下さい。ほんとにほっておいても成功がでけるような星の元に生まれた方なんだけれども、ね、これにいうなら鬼に金棒、自分の中にいつも頂いておく。
藤の花というのは、それこそ下へ下へと下がって咲いていく花である。
その下へ下へ下がっていくから、それでも人はやっぱり、ま、素晴らしいというて見上げて、あのほめたたえるじゃないかと、いうならば、地を低うすること、自分の内容というものを分かること。自分のようなものがということが分ること。
そこにおのずと、いうならば、お徳を受ければ受けるほど、頭が低うなるという姿勢を持っていくならば、人はもうそれを押し上げずにはおかんという働きが生まれる。
なるほど藤は上に上にと、そのかずらは登って行こうけれども、花は下へ下へというような心の状態、もうそのことを大変喜んで帰られました。
ね、だってそのことをまあ、伝えさして頂くということでございましたが、いや、その衛藤さんだけのことではありません。
私どもも段々それこそ信心が高められていくと同時に深められていくということを、私どもはやはり聞かなければ分らんのでございます。
今まで私どもが何十年のいうなら過去においての金光教の信心を頂いて参りました。
ね、教えも頂いて参りましたけれども、ひとっつも自分でその深くならず、広くならなかった。
それを合楽で、たとえば合楽理念を持って頂かせてもらうと、もうびっくりするほどしのことが分ってくる。
びっくりするほどしに自分の心が広うなってくる。
それを実証するかのように、おかげもまた広がっていく。
ね、私は神も喜び、ね、金光大神も喜び、氏子も喜びというのは、そういう、いうならば、心の世界、おかげの受けられる世界を広げていくということが、とりもなおさず、神の喜びであり、金光大神の喜びである。
ね、今日研修のときにある方が話、あ、書いとりました。
最近の教団は、ただ、もう、その、こうでなからにゃならんと言って、ね、もう段々いうなら墓穴を掘る、というとあまり厳しいでしょうけども、とにかく小さい所へ小さい所へと金光教を押し込んで行くような感じがする。いうならば盆栽のような金光教だという感じ。だから曲げたりひねったりして育てようとしておる。
これじゃ大きくならない。
もう合楽はそれに反して、大地に根を下ろしたような信心だ。だからこうやってしこりにしこっていくんだ。ね、いよいよしこって行けないのは、ま、切ると致しましても、ね、その根が深くなれば大きくなればなるほどに、上の方への繁盛もそれにつながってくるというおかげ、というようなその発表をしてましたから、その、ま、教団、教団はというとやっぱ、こうカチッと来るような感じがするから、そのへんのところをまあ、ま、そうであっても、ま、ぼかしたなんとか言いようはないもんだろうかねという研修をしたことでした。
ね、こりゃまあ、合楽の方だけだから言えれるお話ですけども、確かに金光教が年々歳々こもうなっていっておる、少なくなっておるというのはそういうところに原因があるのではなかろうか。
教祖金光大神はそれこそ、天地に、ね、広がっていけるほどしの道、ね、日勝り月勝りのおかげを頂いていけれる道を教えておられるのに、ね、ああでもない、こうでもないと、いうならば、広い天地を狭くしておる。これではなるほど神様が喜びなさるはずがない。むしろ歯がゆい思いをさせておるだろうということでございます。
ね、そこでお互いの心の中にいよいよ、ね、有難い。
そこで今日研修に大体どういうようなことが限りなく広がっていき、おかげ頂いていけれるかということを、の時にいつも例に出るんですけれども、大阪の泉尾の教会、中々あんまり大きくて素晴らしくてつかみどころがない。
先生の御信心のどこが良いならあれだけの人が集まり、また人が助かるか、または阿部のの教会なんかでもそうです。
女の先生ですけれども、とにかくあれだけの人が助かる。
で、今日段々研修しておるうちに、こりゃ阿倍野の信心のおかげを受けられるのはこれだろうと、泉尾がおかげを受けられるのは、これではないか、というところに段々こう話が、ま、結集されて参りました。
ね、分りません。分りませんけれども、今日私どもが研修し得たところから申しますと。阿倍野の場合はもうその一切を有り難いと受ける、喜びで受けるということがもう底が抜けたように有り難い。
もう一切を有り難い、こりゃもういつも、ね、ここでも話しておりますけれども、それが、も、いず、阿倍野の先生ほどしに垢抜けしてない。
底が抜けてない。
ね、ある時の先代の御霊祭を奉仕された。もう沢山の人が集まってお祭りを頂いたところが、その日はもう、その日に限ってもうどしゃ降りであった。
こちらの方へ奥城があるからここの窓を全部開け、取り払うて、そちらの方をみんなが向き直って、そしてこのお広前からその墓前祭が行われた。
その後に先生があのお話しなさっておられることが、も、今日はおかげを頂いて、足を汚さずに済みました。皆さんおかげを頂いて有難いちいわっしゃった。
それをほんとにそうだと思うておられるわけです。これがもしなら、私どもであったら、ほんとに私の不徳のために、こんないうならば、どしゃ降りになって、御霊様にも相済まん、皆さんにも相済まんことであったということになるでしょう。
だから相済まんことになってしまうわけなんです。
ね、私はその心のね、いうならば、有難いおかげの受けられるところに、心の状態をいつも置いておくということ、ね、心がいつも神様の心と一体になっておるということ。
おかげの頂かれる心の状態であるということ。
ね、それを私どもは、その私のお粗末だ、御無礼だというて済みません、というから、お前が不行き届きだからというて怒られならんような感じがするんです、ね。
もうそれを、そこんにきはもう全然ないですね。もうおかげを頂いて今日は足を濡らさんで済んだと、というてま、喜ばれたというお話が、先生のお話をまとめた御本の中にございました。
ね、だから、んならそれを真似しょうとして、んならそう思うても、心の中にいうなら不浄です、今日の御理解からいうと、ね。
わが心の中にいうならば、不浄を、自分の心で犯すこともあれば払うこともあるという、そこの信心が徹底してでけて実証に実証、ね、実験に実験をさせてもろうて、ね、神様の働きというのはもう神愛だけしかないんだと、このお湿りも神愛だと、足を汚すまいと、それからその働きだと、もうだけしかないんだと、いう頂き方。
そこにあのいうなら偉大な、いうなら、御信心が生まれていくのではなかろうかというて話したことでした。
また泉尾の三宅先生の場合であってもそうです。どうも分らない、先生のお話はもうとにかくあまりのにも深くて高いから、私どもには分らないのでしょうけれども、分らない。ところがたまたま昨日、今言う、神も助かり、神も喜び、金光大神も喜び、ね、氏子も喜びというあの御理解を頂いたときに、ね、今のお話が出たんです。
ね、ここにあの井上太郎という先生が修行しよります。学院で修業中に教外、教会外の教会で修業を致します。
そん時にたまたま、泉尾の教会に修行に参りました。
そん時にある、ま、大変難しい問題を先生にお伺いをさせて頂いた。
そしたら先生が仰ることはですね、なんだったかね、なんちゅうった。なんちゃ、あ、そうそう、本音、ね、本音と、あ、本音と建前ということを仰ったそうです。
ね、お互いにやっぱりその本音というのがございます。
たとえば、あの、まあ、ま、間食は致しませんと、いうふうにま、決めておりましても、ね、たまにちょっと自分の好きなものが出たら食べたいと思う心が起こる。これが本音です。
ね、ところが建前はもう食べないということにしてあるのです。
だからそれを食べたら、やはり神様に御無礼になることになるです。ね。
それが建前ですから。ね、そこの本音とね、建前を、ね、いうならばこう練り合わせる。そしてあの生くさけと、植物性のものを練り合わせてかまぼこがでけるように、そこにはまた一種違った味合いのものが生まれてくる。ね、そういうそのおかげを頂いておるという話をなさったそうです、その時は分りませんでした。
けども昨日今日、それが段々こう分ってくるような気がするんです。
ですから泉尾の先生のお心の中には、もういつでもどんな場合でも、その本音と今いう建前とがもう一つになって、いうならかまぼこのようなものが、こう生みなされていっておる世界が泉尾のおかげの世界じゃないだろうかというふうに、ね、私どもそれをはあ、御粗末であったとか御無礼であったとかというふうな頂きます。
だからそれを御無礼であり、心に引っ掛かるから、やはりおかげがそこに引っ掛かって、十分の、十全の教えを頂きながら、十全のおかげになっていかないというのは、そういうことになるのじゃなかろうかと、いうようなことでもね、話を聞いていやが上にも心が広がっていくのです。
おかげの世界がです、こんなことでは、と思っておったことにこんなことではない、それは御の字を付けて神様にお礼を申し上げねばならない、というように自分の心が開けてくるという世界。
ね、話を聞いて助かるということは、ね、またそういう、いうなら、天地にこう広がっていくというか、ね、いよいよ十全のおかげが受けられる心の状態を、ね、作っていく手立てをお話しによって聞かしてもらい、それを実験させて頂いて、なるほどだと自分の心に合点をしていく。そこにおかげの世界はいやが上にも広がっていくという。
ね、泉尾の繁盛と言い、ね、阿倍野のごひれいと言い、そういういうならば、もう限りなくおかげの受けられない世界というものが、おかげの受けられる世界ばかりである。
ね、もうどこまでも有り難いという神様の御神愛あるのみという、有難いという、降っても照ってもおかげを頂きましてという答えしか出てこないという世界である。
そういう世界がいよいよもって、スッキリとしていくという、いうならばけいこでございます。
だから初めからそれがでけるということじゃないですけれども、ね、いうならば暑い思いをせねばならない時に、暖房装置、あ、その冷房装置がしてあれば、涼しい思いがでけられる。
いうなら心のコントロールが取れて行くときに、調和のとれた、いうならば、おかげにも結びついて行こうというものでございます。
今日の大分のこの衛藤さん、いわゆるその藤の会という会がです、ね、いよいよこれから発展していくことのためにとにかく、中心になるその衛藤さんの心が、下へ下へと咲いていく藤の花のように、おかげを頂いて行かれて、いうなら高潔なその人物というか、それはいよいよ高められて、それこそ同じ藤でも、それこそ富士の山のような気高い心の状態を作っていかれる。いわゆる高められる、深められる、そういういうならば、おかげを受けられたときにです、ね、私どもが信心で言うところの、いよいよ広い、ね、深いおかげの世界があると思うのです。
いよいよ私どもが、高めていくことのためには、お話を頂かなければならない。
いよいよ深めていくためにも、またなおさら、一段と自分というものを見極めて行く、いうならば教えを頂いて行かなければならない。
そして初めて、話を聞いてなるほどと合点がいき、実験がでける。
そこから実証が生まれてくる。おかげだけの世界がそこから開けてくるわけでございます。ね、話を聞いて助かるということは、ね、話を聞いて徳を受ける、力を受けるということにつながる。
話を聞いて助かるということで、話を聞かずに助かったというのは、おかげを受けておっても、こんなことまで話さんやならんならば、というようなことになってくるわけです。ね、もうそれこそ自分のそれが、一家のたとえば恥ずかしいことであったとしましても、私がかくおかげを頂いた、いうならば、自分というものを虚しゅうして、その話を愛の心を持って人に伝えて行くときに、初めてそれが実感となって人にも伝わっていく。
ね、話を聞いてお互い助かっていかなけれならんということでございます。どうぞ。